「岩倉具視使節団」~近代国家の指針を求めて~

ijinden1岩倉具視を特命全権大使とした「岩倉使節団」は、近代国家日本の指針を求めて明治政府が欧米諸国に派遣した公式の使節団である。1871年12月に横浜港を出発し、帰国したのは約1年10ケ月後の1873年9月。そのうちフィラデルフィアに滞在したのは1872年6月22日から25日の4日間。この間彼らは合衆国造幣局、フェアモントパーク、州議事堂(現独立記念館)、蒸気機関車の製造工場などを視察して回った。一行がとりわけ注目したのが造幣局。使節団に随行した歴史学者の久米邦武がまとめた旅行記『米欧回覧実記』には、鋳造過程や貨幣のコレクションの見学の模様が詳細に描かれており、明治政府が対外貿易のため諸国との交換率を定め改鋳した新しい貨幣「円」の行く末を、彼らが見つめていたことがうかがえる。

ijinden218世紀を通じてフィラデルフィアは北米最大の都市であり、独立戦争の舞台となったアメリカの自由のシンボルの街でもある。独立宣言の起草が行われ、合衆国憲法が制定された州議事堂。ここを訪れた感想を久米は次のように記している「いまでは堂々たる合衆国憲法のもとに、3億7000万ドルの歳入を持ち、世界に隆盛を示しているアメリカであるが、その起源は、この議事堂に愛国者たちが集まり、苦心を重ねながら自主の権利を勝ち得たのである。その時の状況はどのようであったろうと想像してみた」。

岩倉使節団がこの地で吸収したものは、アメリカの”技術”であり、また自力で勝ち得た”自由”と”権利”の歴史的重みであったのだ。

「永徳斎」(山川保次郎)~謎に満ちた人形師~

eitokusai11907年から1927年の20年もの長期に渡りフィラデルフィアに滞在し、今はなき「フィラデルフィア商業博物館」に勤務した人形師がいた。山川保次郎(1865-1941)。明治から昭和初期に三代にわたって、皇族や財界人らに愛された人形師「永徳斎」(えいとくさい)一族の第三代目となった人物だ。

彼は1904年、セントルイス万国博覧会にて日本の茶業組合の展示コーナーの陳列装飾担当者として39歳にして渡米。間口二間、奥行二間の御殿風の部屋の中に、茶の湯の式に望む等身大の美人人形二体を配するという大掛かりなものであった。この万博会場で、のちにフィラデルフィア商業博物館の設立者となる、ペンシルベニア大学生物学教授ウィルソン博士と出会ったと思われる。

eitokusai2万博終了後、一旦は帰国したものの1907年に再渡米。フィラデルフィア商業博物館の展示用生人形や模型の製作に従事した。まだCGによる解説や、展示用ロボットがなかった時代、ジオラマや人形モデルを利用した展示は今以上に効果的であったであろう。詳細につくられた等身大人形で日本、中国、フィリピン等の世界諸国の生産労働や風俗を表現。残念ながら彼のフィラデルフィア滞在中の作品は、テンプル大学に小型のものが3体残っているだけで、その足跡は謎に包まれたままである。しかしそれらの作品から、彼が伝統的な愛玩用の日本人形の枠を超えて、より写実性を追求し、大胆な表現形態を模索したのが見て取れる。帰国の翌年、二代目であった兄が亡くなり、保次郎は三代永徳斎を継ぐのである。

「津田梅子」~蛙の卵の研究をしていた~

ijinden6津田梅子(1864~1929)は1871年、弱冠7歳で岩倉使節団と共にアメリカの地を踏んだ。欧米諸国と肩を並べる国力を養う目的で、若い女性の教育を重視した日本政府により送り込まれた彼女は、10年もの長期に渡る留学生活を経て帰国。その後女性の高等教育に尽力し、津田塾大学を創設した、という話は有名だ。ただ彼女が25歳の時に再び、今度は自らの意志で留学を敢行し、なんと蛙の卵の研究をしていたことはあまり知られていない。

ijinden5フィラデルフィア市街から電車で約25分、閑静な高級住宅街が立ち並ぶ地域に津田梅子が通ったブリンマー大学がある。美しい芝生に石造りの校舎が映えるキャンパスは、1885年の創立時のそのままに今も使用されている。東部の名門女子大学として知られるこの大学に、梅子は創立まもない1889年に入学。生物学を専攻した。彼女の理学系の才能はみるみるうちに開花し、指導教官のモーガン教授との共同研究をまとめた論文「蛙の卵の発生に関する研究」は1894年、イギリスの権威ある学術雑誌『季刊マイクロスコピカル・サイエンス』第35号に掲載されたほどである。その才能を買われ、研究者として大学に残ることを要請された梅子であったが、当時の日本の女性教育の発展に尽くしたいとの思いが強く、3年後に帰国。苦心の末、1900年に今日の津田塾大学となる女子英学塾を、わずか10人の学生でスタート。1926年に65歳で亡くなるまで、その生涯を女子教育の発展に捧げた。津田塾大学とブリンマー大学は、現在も姉妹校関係にある。

小栗忠順 おぐり ただまさ造幣局で通貨交渉を行ったサムライ

およそ150年前、日本は幕末の1860年(万延元年)6月9日、フィラデルフィアの駅にサムライの一団が降り立った。徳川幕府の命により、日米修好通商条約批准書交換で渡米した日本初の公式遣米使節団である。一行は米国軍艦ポウハタン号で品川~ハワイ~サンフランシスコ~パナマに到着。当時はまだ運河がなかったのでパナマ鉄道で大西洋側へ出て、カリブ海を渡ってワシントンに上陸した。ホワイトハウスでブキャナン大統領に条約の批准書を渡した後、ボルティモア~フィラデルフィア~ニユーヨークと鉄道で移動し、ニューヨークから大西洋廻りでアフリカ~インド洋~インドネシア~香港~日本、と九ヶ月かかって世界一周し帰国した。

正使新見(しんみ)豊前(ぶぜんの)守(かみ)正興(まさおき)、副使村垣(むらがき)淡路(あわじの)守(かみ)範(のり)正(まさ)、監察の小栗(おぐり)豊後(ぶんごの)守(かみ)忠(ただ)順(まさ)の三使と随員、従者の計76名は駅から30万人の市民の出迎えを受け、フィラディルフィア市内を馬車でパレードした。まず市庁舎を正面に見てブロード通りを北上し、ウォールナッツ通りで左折して西へ向い、19番通りを右折して北へ、アーチ通りで右折して東へ進み、3番通りで右折して南下、そしてチェストナッツ通りで右折して西へ,公園前を通って、コンチネンタルホテル(チェストナッツ通りと9番通りの交差点)へ到着した。

小栗は、フィラデルフィアで日米の通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。日米修好通商条約で定められた不当な交換レートによって日本の小判(金貨)が大量に国外へ流出しているのをくい止める為である。小栗は、3枚の小判を持参し、市内の造幣局を訪ね、ジェームス・スノーデン長官に小判とドル金貨の分析実験を要求した。小栗は、双方の通貨に含まれる金とそれ以外の以外の金属含有量をその場で確認し、分析結果を元に、銀や銅の含有量を加味した双方の通貨の価値を算出した。そして、通商条約で定められた交換レートが不当であり、これによって日本政府が2倍以上もの損失を受けていることを、アメリカ側に認めさせることに成功したのである。使節団としてこれ以上の交渉権を持たない小栗は、政府に対し通商条約の改定を求めるまでには至らなかった。しかし、相手に実際に確認させながら、現在の交換レートの矛盾を説き伏せていく小栗の巧みな交渉術はアメリカ人を脱帽させた。新聞は小栗を当時人気の名判事になぞらえて称賛している。

小栗は帰国後、外国奉行、勘定奉行などを歴任し、アメリカでの見聞を活かした数々の改革案を提案・実行した。横須賀造船所の建設、日本初の株式会社「兵庫商社」の設立、兵制改革、郡県制度を提唱するなど、多方面で日本の近代化に貢献している。

「野口英世」~輝かしいキャリアはペンシルベニア大学からスタート~

hideyo noguchi野口英世は1886年、東北地方の貧しい農家に生まれた。2歳の時、燃えさかるいろりに転げ落ちひどい火傷を負ってしまう。特に左手の火傷がひどく動かすこともできなり、百姓として生きることをあきらめた英世は勉学に励むようになる。

海外で医学のトレーニングを受けた渡部医師が施した手術のおかげで、左手が多少使えるようになった英世は、同医師のもとで書生として働き、医学を学ぶ。東京で開業医試験を受け合格した後、北里研究所で働き始め、そこで英語の通訳としてサイモン・フレクスナー博士に出会う。フレクスナー博士にアメリカに留学したいと相談を持ちかけた英世。フレクスナー博士の「ザッツ・ファイン」という社交辞令的な返事をまともに受け、1900年、24歳の時に名門ペンシルベニア大学の彼の研究室を訪ねてしまうのだ。

英世のことを覚えてもいなかったフレクスナー博士だが、熱意にほだされ毒蛇の研究の仕事を与えた。研究助手として不眠不休で働いた英世は、次々と研究論文を発表し頭角を表す。デンマークでの免疫学の研究を経たあと、フレクスナー博士について1904年、ニューヨークのロックフェラー研究所を発足させた。ここで梅毒の研究を成功させ彼の名は世界的に知られるようになる。ペンシルベニア大学は1907年、英世にマスター・オブ・サイエンスの名誉学位を授与した。その後生涯を海外での研究生活に捧げ、黄熱病の研究のために渡ったガーナで、自身もその病に倒れ客死。英世はメリー夫人とともに、ニューヨークのブロンクスにあるウッドローン墓地に眠っている。

「河井道」~恵泉女学園の創設者~

michi kawai新渡戸稲造夫婦の助言を受け、また津田梅子が尽力して設立した日本女性のための米国奨学金制度の第二回奨学生として、1900年にブリンマー大学に入学したのが河井道である。

彼女は1904年に大学を卒業して帰国したのち1912年、日本YWCA同盟の最初の日本人総幹事に就任し、日本代表として幾度かアメリカ、ヨーロッパに赴いた。そして1929年、道52歳にして念願の恵泉女学園を創立。「聖書」「国際」「園芸」の三つを柱とした女性教育は現在に至るまで受け継がれている。

「有島武郎」~フィラデルフィアで多感な青年期を過ごす~

takeo arishima『或る女』、『カインの末裔』で知られる小説家、有島武郎がフィラデルフィアの地を踏んだのは、1903年、25歳の時である。札幌農学校の先輩である新渡戸稲造の勧めでキリスト教に改宗し、その妻メアリー・エルキントンから英語の集中レッスンを受け、クエーカー教の教育機関であるハバーフォード大学に留学。ドイツ史、ギリシャ史、ローマ史、経済学の授業を取り、ギリシャ史で最高の成績を得た。また「日本文明の発展―神話時代から将軍家の滅亡まで」というタイトルの254ページに渡る論文も提出している。流麗な英文筆記体で書かれた分厚い論文は、現在もハバーフォード大学図書館に保管されている。

takeo arishima 2ただ彼の滞米経験は決して幸せというものではなかった。「ひどい文明主義」と「人種差別」に苦しみ、有島のキリスト教への信仰心は常に揺れ動いていた。「1906年から1907年にかけての帰国後は、札幌農学校での講師を短期間務めた後、作家へ。志賀直哉、武者小路実篤らと出会い、文芸同人雑誌『白樺』の創刊にあたり同人となって寄稿。当時の文壇を覆っていた社会主義の思想やプロレタリア文学に傾倒し、キリスト教を離れていくのである。